昭和48年(1973年)、別子銅山は283年に亘る歴史に幕を閉じた。元禄4年(1691年)の開坑から閉山まで、一貫して住友が経営したという点については世界でも例のない銅山であったらしい。
山根精錬所跡の煙突 松山自動車道新居浜インターを下りて間もなくすると、最初に目につくのが、小高い山の上に建つ煙突であろう。山は生子山(しょうじやま)、別名煙突山と言い、その煙突は、高さ約18メートル、レンガ造り、明治21年建造の山根精錬所跡に立っている。
大山積神社 大山積(おおやまづみ)神社。1691年、別子銅山開坑直後、鎮護の神として愛媛県越智郡大三島町の大山祇(おおやまづみ)神社より勧請されたが、事業の変革と共に、目出度町(めったまち)、東平(とうなる)を経て、昭和3年、現在の生子山麓に奉還された。同神社には、山の神らしく「作業安全」などの石碑が立つ。同神社には別子銅山記念館もある。
同上
人車。網が張ってあることから「かご電車」とも呼ばれた。 明治25年、日本初の山岳鉱山専用鉄道として別子銅山がドイツから購入した蒸気機関車「別子1号」。昭和25年、幹線の電化と共に廃車になり、愛媛県立新居浜工業高等学校に保管されていたが、別子銅山記念館の建設にあたって同所に移設、保存展示されるようになった。
旧端出場水力発電所 明治45年建設。内部には、ドイツ・ジーメンス社製の発電機やペルトン水車などが現存。
同上
別子鉱山鉄道跡
街中に残る別子鉱山鉄道下部線、通称「下部鉄道」の線路跡。明治26年、端出場から惣開(そうびらき)までの間、10461メートルが完成。その後距離は延びて、昭和11年には新居浜港線、昭和17年には国鉄新居浜駅連絡線が敷設され、物資の輸送はもとより、一般人の通勤手段としても広く利用された。
同上
あかがねの里「東平(とうなる)」 端出場から車で25分くらいの所、赤石山系の山中に、あかがねの里「東平」がある。
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