国道190号線から入ってすぐのJR宇部線踏切を渡ると墓地が目に入る。その墓地前の十字路から右側が長生炭鉱があった場所となるが、左に曲がった所にも新浦炭鉱があった。 新浦炭鉱は明治15年に開坑、同所においても、大正10年12月30日出水事故により33人もの犠牲者を出した。この事故後、同炭鉱は隣の長生炭鉱に吸収されたという。
右側に位置する墓地が途切れた所を右に入った奥に新浦炭鉱の殉職者之碑が建つ
大正12年12月建立の殉職者之碑(2005年7月27日撮影)
同上(2005年7月27日撮影)
「大正10年12月30日変災、施主 新浦炭鉱、同 宇部遺族救護会、同 山口県獣督会」とある。
台座には犠牲者33名の名前が記されている(2005年7月27日撮影)
同上(2005年7月27日撮影)
無縁墓(2005年7月27日撮影) 殉職者之碑の隣に「無縁墓」がある。「昭和27年3月21日 民生委員建立」と記されている。この無縁墓には、県外や朝鮮からの身寄りのない坑夫たちも葬られているのではないかということを想像する。
(2005年7月27日撮影) 殉職者之碑の前は雑草生い茂る空き地になっており、こんもりとした盛り土も見られ、傾いた石碑が1本残っていた。土葬の痕か。
斜坑口跡(2005年7月27日撮影)
殉職者之碑があった場所の江頭川河口付近対岸にも墓地があり、そのはずれに現在新浦会館が建っているが、「ここは新浦炭鉱の斜坑口があった所」と、通りがかりの老婦人が親切に教えてくれた。
なお、さらに北に進んだ所にある床波漁港の西側砂浜にも昭和38年8月に開坑された炭鉱があったが、同年10月29日出水事故により4人の犠牲者を出してすぐに閉山になった。この炭鉱や事故のことは、長生炭鉱などの大きな事故に隠れてしまい、あまり知られていないという。
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