日鉄二瀬鉱業所本部中央坑跡  福岡県嘉穂郡穂波町大字枝国長浦666

 日清戦争後、明治政府は「鉄は国運進展の基」として増産政策を進め、明治30年福岡県遠賀郡八幡村に「官営製鉄所」を設立した。その燃料として二瀬炭鉱の石炭に目をつけこれを買収し、明治32年12月、製鉄所二瀬出張所が発足した。
 昭和9年官民合同による「日本製鉄株式会社」が設立。製鉄所二瀬出張所は「日本製鉄株式会社二瀬鉱業所」となった。昭和12年7月、日華事変がぼっ発、製鉄用原料の総合開発と確保の必要性が一気に高まり、昭和15年日本製鉄の子会社として「日鉄鉱業株式会社」が設立された。
 そして、太平洋戦争、朝鮮戦争の恩恵を受けて一時生産も上向いた時もあったが、戦時中の無理な乱掘がたたって生産力が除々に衰え、石炭から石油へというエネルギー革命のせいもあって、昭和38年1月15日、64年の歴史に幕を閉じた。

 現在、その日鉄二瀬鉱業所本部中央坑跡の真向かいはジャスコ穂波店となっており、買物客の車が煩雑に出入する同所に、炭鉱があったことなど忘れられてしまったような感がある。ましてや、ここの中央坑で、大正2年2月6日、ガス炭塵爆発事故により101名の者が亡くなったことなど、誰が知るであろうか。

日鉄二瀬鉱業所本部中央坑跡(2002年7月29日撮影)

 ジャスコ穂波店東側の片隅に残る二瀬鉱業所本部の門柱2本。同所の裏側は公園になっている。
 その他、潤野本鉱跡は嘉穂高校、潤野小正鉱跡は若菜小学校に変わっている。
 なお、2013年6月11日、「小学生時代、現在嘉穂高校になっている、当時の潤野元町に住んでいました」という男性から次のような便りをいただいた。
 「父と時々出向いた潤野本鉱は、現在の嘉穂高校より少し東南の若菜小学校区にありました。嘉穂高校には、潤野本鉱で働く鉱員の炭住が建ち並び、区域内には診療所、神社、幼稚園、購買会、共同浴場、その他地域社会に必要な小売店等がありました。」という。  

同所石版写真より(2002年7月29日撮影)

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