堀川の歴史  (2003年9月撮影)


 江戸時代初めの遠賀川は、大雨の度に洪水を起こし、周囲の村々に大きな被害をもたらした。このような状況下、1620年初代筑前藩主黒田長政は、遠賀川筋の中間から洞海湾へ人工の運河(堀川)を通すことで、洪水防止・かんがい用水の確保・新田開発・物資の輸送が可能になるという理由から遠賀川の築堤とともに堀川の開削を計画した。
 工事は1621年着工したが、1623年長政の死去や藩財政の悪化等により中断することになった。
 それから百年後の1730年代(享保年間)におきた大飢餓を契機に工事の再開が決断された。この工事の難所が吉田車返から折尾大膳に至る岩山で、1757年、この岩山を金づちやノミを使い、長さ約400m、幅約6.4m、山頂から川底までの深さ約20mを7年の歳月をかけて切り開いた。この工事の動員数延べ10万人以上と言われ、そのノミ跡は今も現存し、当時の苦労がしのばれる。
 その後、取水口部分の中間の総社山を切り開いて石唐戸の水門が築かれ、1762年、堀川は開通した。さらに、1804年、楠橋に新たに寿命(じめ)水門が築かれ、洞海湾までつづく約12kmの堀川の工事は終了した。着工から184年目のことだった。
 その後の堀川は、農業用水だけでなく、遠賀川周辺の特産物や石炭を運ぶ水路として利用され、地域の発展に貢献した。明治時代には筑豊の石炭輸送の動脈として、多い年には年間10数万隻の川ひらた船(五平太船)が洞海湾・若松港を目指して堀川を行き来した。
 しかし、川ひらた船は明治時代以降の鉄道発達等で次第に衰退し、1935年(昭和10年)頃に堀川も水運としての使命を閉じた。
 (中間市教育委員会)

中間唐戸

 福岡県中間市。写真左の建築物が堀川の「中間唐戸」。唐戸とは水門のことで、昭和58年3月19日、福岡県文化財に指定された。
 遠賀川が増水すると、堀川下流域を水害から守るために、唐戸は閉鎖されるようになっている。そのとき、遠賀川の水勢に耐えることができるように、唐戸は岩盤の地を選んで構築されている。堰戸(せきと)も天井石の下は表戸と裏戸の二重構造になっており、天井石の上は溢水を防ぐための中戸で、独特の構造である。上家(うわや)は堰板等の格納所になっている。(中間 市教育委員会)

中間唐戸前の堀川

 

河守神社前堀川

 福岡県遠賀郡水巻町吉田地先 河守神社。折尾高校近くに位置する。

河守神社の石版写真より

 

河守神社の石版写真より

 その昔、肥前の役人・五平太なる人物が燃える石を発見し、人々はこの石炭のことを「五平太」と呼ぶようになった。そこから、川ひらた船を五平太船とも言い、その船が北九州市八幡西区大膳にある県立折尾高校に保存されている。かつて船頭たちは、「わたしゃ若松 みなとの育ち 黒いダイヤに 命を賭ける わたしゃ若松 五平太育ち」(火野葦平作詞・五平太ばやしの歌より)と唄った。

BACK