明治22年、志免炭鉱は海軍の軍艦の燃料を目的として開坑され、太平洋戦争敗戦まで海軍が石炭を採掘してきた。しかしそれまでは、日本帝国海軍は英国炭を輸入していたことから、それでは有事の際にはゆゆしい問題であるとして、明治19年、英人技師を招いて全国各地の炭質を調査し、その結果筑豊炭田が選ばれたという。
終戦後は、昭和20年12月から「運輸省門司鉄道局志免鉱業所」として発足し、門司鉄道局所管となったが、翌21年12月からは運輸省直轄の経営に移った。同時に政府は、石炭業界に対して資金・資材・住宅・食糧・衣類などの面で著しく優遇した。しかし政府は占領軍と共にその分増産を強く要求し、所長以下労働組合も一体となって労働強化に耐え、与えられた生産目標をこなして行った。
その間の昭和33年から翌年にかけて、国鉄志免炭鉱民間払い下げの問題があり、国労志免支部をはじめとした九炭労、公労協、福岡県総評、日農、社会党などの支援を受けた共闘部隊7000人と福岡県警2000人とが対峙するという激しい阻止闘争があったものの、結果的に、その閉山まで一貫して国営の炭鉱であったことが志免炭鉱の大きな特徴となっている。
日本国有鉄道志免鉱業所 (昭和58年福岡県航空写真集より)
竪坑櫓(1999年6月28日撮影)
高さ52.5メートルのコンクリート製。竪坑の深さ430メートル。この竪坑櫓の形はランディングタワー型と呼ばれ、三井三池炭鉱四山坑第一竪坑やぐらと同一の構造物であったが、三井三池四山竪坑やぐらが平成8年9月解体されたことにより、同所の竪坑櫓は日本で唯一残存する櫓として、いまや貴重な産業遺産となっている。
この写真撮影から10年後の2009年、竪坑やぐらのもが国の重要文化財に指定された。なお、これと同じ形の竪坑やぐらが三井三池炭鉱四山鉱に存在していたが、閉山間際に爆破されてしまった。壊されずに残されていたら、国の重要文化財になった事は間違いない。
(1999年6月28日撮影)
排気用斜坑(1999年6月28日撮影) 写真のように、坑口がY字型をしていることは珍しい。なお、その後解体された。
同上(1999年6月28日撮影)
第8坑連れ卸坑口とボタ山(1999年6月28日撮影)
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