住友忠隈炭鉱 その2  福岡県嘉穂郡穂波町忠隈

 

墓地から写した「山の神社」跡(2005年7月27日撮影)

 愛媛県の大山祗神社から分霊された「山の神」は、当初は住友忠隈炭鉱病院の中に建立されていたが、昭和初期になって住友忠隈炭鉱体育館(現 穂波幼稚園)の裏に移転された。現在は更地になって工事中であった。

旧住友忠隈炭鉱体育館。現 穂波幼稚園。
(2005年7月27日撮影)

 「ほなみ幼稚園は昭和41年ボタ山のふもとの広々とした土地に開園しました。 木造の体育館(遊戯室)は昭和14年の建築です。2階までの吹き抜けホールは暖かみのある快適な空間です。 園舎は昭和56年2月に改築しました。体育館と同じく木の温もりのある建物です」
(穂波幼稚園ホームページより)

「住友忠隈炭鉱之跡」記念碑(2005年7月27日撮影)

 住友石炭鉱業編「わが社のあゆみ」の巻頭に、昭和40年に撮影された同様の住友忠隈炭鉱閉山記念碑の写真を見る。しかし、その写真の記念碑には台座があり、ボタ山を背景にした高台で写真が撮られていることがわかる。同書には、「記念碑は、昔のままの迎賓館の庭先に、静かに建っている」と記載されてある。
 実は、「住友忠隈炭鉱之跡」記念碑があった場所を公園として整備するためにとりあえず先の写真の場所に借り置きをしているということであり、工事は平成18年3月31日までに終わることになっていて、同記念碑はまた元の場所に戻されるという。

(2005年7月27日撮影)

ボタ山の裾に残る住友忠隈炭鉱の旧炭住
(2005年7月27日撮影)

 旧炭住が残る嘉穂郡穂波町も、平成18年3月25日をもって無くなる。飯塚市、穂波町、筑穂町、庄内町、頴田町の1市4町が合併することで、平成18年3月26日から新飯塚市に生まれ変わる。いずれこれら炭住のある風景も無くなっていくのだろう。

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