グラバー別邸跡と南風泊漁港
長崎のグラバー邸で有名なトーマス・グラバーは1868年(明治元年)肥前藩と契約して高島炭鉱
の開発に着手、この地に洋式の別邸を建て居住した。建物は現在取り壊され、その跡地は公園となっている。
トーマス・グラバーは1838年スコットランド生まれ。幕末、薩摩・長州・土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売して
いた武器商人であったが、蒸気機関車の試走、ドック建設、炭鉱開発など日本の近代化に果たした役割は大きかった。
当初、高島炭鉱の実質的経営者であったが、明治14年、官営事業払い下げ後、三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収してからも
所長として経営に当たった。1911年(明治44年)に死去。墓は長崎市内にある。
(後記)
先日、高島を故郷とする人から「私のふるさと三池との違い」について尋ねられた。すぐにはうまく返答出来なかったことが
あれからずっと気になっていたので、それをここに記しておきたい。
まずは、三池炭鉱があった大牟田・荒尾とは違って高島は島国であるということである。高島はまさしく三菱の一島一企業と
言われていただけあって、ヤマの閉山後の町は静かすぎるほど静かだった。
炭鉱の中高層アパートが林立していた権現山を歩いていても、誰一人出会うこともなく、聞こえるのはセミの声だけ。
その炭住跡には、ここにかつて炭鉱社宅があったことを示す標識の杭がていねいに1本、1本建てられていた。その町の優しさ
には感動したが、他に活用の方法が見つからないことも正直な話なのだろう。
大牟田・荒尾のような陸続きの町においてもまだまだ草だらけの炭住跡が目立ちはするが、それでも場所によっては炭住の跡
地に新たな家が建ったり大型量販店が出来たりしている。その一方で、炭鉱跡を残して観光にも役立てていこうというNPO団体
等もがんばっている。
しかし離島の高島においては、炭住跡だけに限らず、高島教会付近の民家までもが何軒か廃屋になっているのが気になった。
人口は減る一方のようである。
この廃屋を一生懸命写真に撮っていた若者が1人いた。島外から来たというその若者は「高島が好きで何度も来る」という。
私もまた、今度は涼しいときに、高島へ再度行ってみたいと思っている。そのためにもこれ以上、高島から石炭の匂いを無くさ
ないでほしいと願っている。
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