慰霊碑  高嶋神社境内 (2006年8月20日 撮影)


高嶋神社境内に建つ慰霊碑

 三菱鉱業所は閉山を機に、1989年(平成元年)、高嶋神社に慰霊碑を建立した。しかしその 直後、何者かによって壊されるという事件が起きた。その原因となったのは一体何だったのか。

 現在の慰霊碑には碑銘板がないが、建立当時の同碑には碑銘板があった。それは次のようなものだった。

(提供写真)

その「・・・中国並びに朝鮮半島から来られた人々を含む多数の働く者及びその家族が、民族・国籍を超えて心を一つ にして炭鉱の灯を守り、苦楽を共にした・・・」という内容に、心ある市民らが猛反発した。

 太平洋戦争中、国策により、三菱高島炭鉱においても中国並びに朝鮮半島から多くの人たちが強制連行されてきたと いう歴史がある。その人たちに対する三菱高島炭鉱の扱いは非人間的なものであった。

 にもかかわらず、その歴史を書き換え美化したような碑銘板に市民らから再三抗議の声が上がった。結果、三菱は碑 銘板を断念、現在の花柄模様のレリーフに取り代えられた訳である。

(提供写真)

 また、同慰霊碑の右横には当初、大正10年7月31日建立という「安藤翁公徳記念碑」と、昭和15年10月吉日建立という 「岩崎平先生記念碑」が建てられていた。
 それは模造品で、本物はそれぞれ別の場所にあったが、にもかかわらず慰霊碑のそばにわざわざ二つの公徳碑を集めた 目的は何であったのか。

「安藤翁」とは、名を安藤兼造と言い、その碑文によると、三菱高島炭鉱が朝鮮人労働者募集を開始した大正6年10月から の「朝鮮人の監督者」で、彼に感謝した朝鮮人坑夫5名が「安藤翁公徳記念碑」を建立したと記されている。

 「岩崎平」とは、昭和14年から同15年にかけて、「募集」という名の下、朝鮮半島の人々を高島炭鉱へ強制連行しだした 頃の「高島訓練所長」であった。

 それら模造品の公徳碑も、慰霊碑の碑銘板撤去からしばらくした後、三菱により撤去された。その表向きな理由は、 「高嶋神社における二つの記念碑は模造品で、本物の碑が別の場所にあるから必要ないと認めた」という当時の三菱の 弁解だったが、しかし、真相は別のところにあったようである。

 朝鮮の人たちが進んで建てたとされている先の二つの公徳碑が、先の慰霊碑の美化された碑銘板を裏付けるモノとして、 その役割を担っていたのかも知れない。だがその碑銘板を取り外した今、二つの公徳碑も意味をなさなくなったとして、 撤去されたのではないかと考える。
 そしてもうひとつの理由に、先の二つの公徳碑には朝鮮の人たちを見下したような差別用語が含まれていた。これまでの 抗議の中にはそのことを指摘する声もあった。
 高島は三菱企業の発祥の地である。したがって、後々までケチをつけられたくないという思惑から世間体を優先させたの かも知れない。

 なお、本物の二つの公徳碑は、現在朽ちて無くなってしまったらしい。それにしても、虐げられた人たちが、わざわざ 好んで公徳碑を建てただろうか。強制されて建てさせられたと考えるのが自然ではないかと考える。



蛎瀬坑罹災者招魂之碑

 蛎瀬坑罹災者招魂之碑は、1906年(明治39年)3月28日に発生した坑内ガス爆発事故 で殉職した307名の霊の鎮魂のために建立されたものである。
 碑文は東京大学の国史学者と書家によるもので、碑面は大本山永平寺第64世禅師の書による1級品と されている。

蛎瀬立坑坑口(大正12年頃)

 

端島

 高嶋神社から権現山(標高115m)をさらに登ると展望台へたどり着く。そこからは端島がよく 見える。端島はその姿から別名「軍艦島」とも言い、また、戦争中ここに強制連行されてきた朝鮮人坑夫たちは「監獄島」 と呼んだ。
 三菱端島炭鉱として1870年開坑から1974年(昭和49年)1月15日までの約104年間、海上の産業都市として栄え、昭和30年 代の最盛期には5千人以上の人が住んでいたが、現在は無人島となっている。廃墟となった端島はまさしく「監獄島」のよ うに見える。

蛇谷の地蔵

 権現山頂上の展望台から高島高校跡を目指していく途中に、お地蔵さんを見つけた。
 場所は「権現山の蛇谷」と呼ばれている所で、その谷の入り口にお地蔵さんが建立されていた。頭デッカチな お地蔵さんからは異様な気配を感じた。この権現山には朝鮮人等の無縁墓がいくつか残っているという。閉山 に伴い三菱は、労務関係の書類を蠣瀬坑のなかに捨ててしまったらしい。
 この地蔵は閉山後、元労務が悪夢にうなされたためここに置いたものだと言われている。 

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